相対
−−−逢いたい逢いたい逢いたい
かつてこれでもかというほどに時間をかけて甘く甘く躾けられた身体はいくら時間が経っても、自らの置かれた状況がどれほど変化していたとしても忘れることはなく疼き。
神楽が寝静まったのを確認してこっそりと万事屋を出る。人気のない裏道から更に暗闇へ伸びる細道へと折れ曲がり、清潔感皆無なゴミ箱にでも腰掛ければ懐から取り出すのは随分とくたびれ使い古されたひと巻きの包帯。
其れで左目を隠すように自らの顔面に巻きつけ、普段右肩のインナーを露出してだらしなく身に着けている着流しは両腕を通して袷(あわせ)をゆったりと寛げる。身を包む着流しは、彼奴のようにひと目見れば忘れることが出来ないような鮮やかな蝶が舞うものではなく。薄く。薄く。まるで自らの存在の希薄さを現しているかのような柄の其れ。
洞爺湖と書かれたトレードマークの木刀は置いてきていた。代わりに腰に携えたのは真剣。……ただし鍔(つば)から先は馴染みの木刀という代物で。慣れない煙管に火を点けゆっくり吸い込むと肺を満たすのはただの汚れた煙のみ。吐き出した紫煙すら、或れとはまったくの別物だ。
何故こんなことをしているのかなんてとうに忘れた。何時からしているのかすら。
とっぷりと暮れた深夜にもこの辺りは人通りが絶えることはない。名も顔も知らぬ浪士を適当に見繕い、この時ばかりは存在感たっぷりに背後から近付いて。ばっと振り向きすかさず間合いをとった其の浪士は、警戒心をたっぷり孕ませた鋭い視線を此方に寄越す。
思い出せ。内を渦巻き俺を壊すあの笑みを。妖艶かつ絡みつくように支配する或れを。彼奴を真似るように、しかし失敗に終わった薄気味の悪い笑みをにたりと顔に貼り付け、ゆっくりと此方から間合いを詰めていく。件の浪士が何やらずっと喚いているが、僅かばかりも頭に入ってくることはなく。鞘から抜いた木刀を大きく振り上げる。言葉は要らない。ただ、お前の記憶に残ればいい。
今夜も一杯引っ掛けて。とはいえ喉を通るアルコールはコンビニで売っている紙パックの粗悪品。頼りなさ気な細いストローをぶっ刺してちうと吸い上げる。そうして明け方近い時間に万事屋へと戻り、何事もなかったかのように酔っ払った振りをして煎餅布団に汚れた身体を潜り込ませた。
銀時が夜中に家を空けるのは何時ものこと。普段の行いが善い所為で何も不自然なことはない。「どうせマダオと飲み歩いてるネ。金もないくせにこれだから汚いオッサンは嫌アル」と、神楽も初めの頃はさして気にも止めていなかった。
在る日、神楽が夜更けにトイレに起きた際のこと。丁度帰宅した銀時と鉢合わせになったことがあった。ガラリと引き戸が開いたかと思えば、視線が合った銀時はふらりと玄関先に倒れ込み、「神楽ちゃ〜ん。銀サンのお帰りだよォ。うおぇっぷ」と其の侭寝に入ってしまった。
神楽はぴくりとも動かなくなった銀時の片足を掴んでずるずると寝室まで引きずって運び、仕上げに蹴り上げて布団に着地させてやった。ふと其の様子に思案する。(変アル。服が汚れてないし嘔吐物の匂いもまったくしないネ)
「……ッ、トイレトイレ。漏れるアル」
しかし、僅かに感じた違和感を追求することもなく。ぶるりと身体を震わせれば目下の関心はすべて尿意に奪い去られた。
【最近深夜に不審者がいると通報があったんですよ。ええ。目撃情報によると、その不審者は着物姿で片目を覆うように包帯を巻いている、……銀髪の男性のようですね】
「……ふはっ、」
また在る日。見廻組局長佐々木異三郎から連絡があった。何処の誰が俺の真似なんぞしてやがる、なんていう苛つきはなく。直ぐ様浮かんだのはただ一人。
其れは此方で引き受けると短く告げると相手は「それはそれは。新年度を控えたこの時期は我々も隊務が詰まっていましてね。大変助かります」と態とらしい安堵の溜息を漏らした。
(果たし状紛いの熱烈な恋文じゃねェか)
乾いた笑いが屋形船から冷たい冬の夜空へと吸い込まれていった。
「ふーくーちょーう! 副長、大変です!」
大声で騒ぎながらドタバタと慌ただしく自室へ足を踏み入れる山崎に、日々積もり積もった苛つきが増す。まずは入室許可を取りやがれと何度言ったことか。吸いさしの煙草を灰皿に押し付け、新たな物を咥え火を点けて深呼吸。深く吸い込めば一気に肺に満ちる煙を感じ、ぎろりと睨みを利かせてやると山崎はびくりと身を竦ませた。
「あ。す、すいません!」
慌てて部屋を出たかと思うと障子が閉まり、「副長、山崎です」と申し訳無さ気に響く声。おう、と低く答えてやればおずおずと再度入室してくるというこの意味のないやりとりに辟易した。此れは一体何の茶番だ。俺はこの世で5本の指に入る程に大嫌いな書類整理の真っ最中で。しかも本日晴天。おまけに言えば非番也。
「先程とある筋からの情報が入りまして。何でも近頃、深夜から未明にかけて浪士達を辻斬している輩が頻繁に現れるとか。その男は着崩した着流しに包帯で片目を覆っているそうなんですがね、」
吸い殻がぎゅうぎゅうに生えた灰皿を片付け、書類だらけの文机の隙間に雑巾をかけながらの報告。言葉尻からも差し迫った緊急のものでないことが伺える。強いて言えばちらちらと此方の様子を窺う視線がうざってェことこの上ない。
「……その件ならすでに連絡が入っている。見廻組の管轄故手出し無用、だそうだ」
山崎の手にある灰皿へ追加の吸い殻を押し付けてやり、また新しい物を咥える。すかさず火を取り出そうとする山崎より早く火を点け同じく深呼吸。残り3本。
「え。あれ。そうでしたか」
買い置きであろう新品の煙草をさり気なく書類の山の頂上に置きつつ、怪訝な表情を浮かべ「でもあれって」、と続けようとする山崎を静止するように言葉を被せた。
「替えの灰皿早くしろ」
“ホシ”は明らかに彼奴だ。何がしたいのかさっぱりわからん。……嗚呼、苛々する。
障子を開け放した出窓の木枠にだらりと腰掛け、煙管を嗜んでいれば路地裏に入っていく銀髪を視界の隅に捉えた。ここいら一帯での目撃があったとの情報は前以て掴んでいた。ふらふらと揺れる銀髪に小さく、それでいてはっきりと声をかける。
「……銀時ィ。お前、人真似の趣味なんぞがあったのか」
此方からは銀髪しか見えず。頭上から聞こえたであろう声に銀時は一瞬びくりと肩を震わせ歩みを止めた。
「斬るくらいのことやって見せろ。だからお前は甘ちゃんなんだよ」
まぁ、不器用過ぎるお前の愛情表現として受け取ってやらんでもないがな、という小馬鹿にした呟きに、俯いていた顔がゆっくりと此方に向き。視線がぶつかった際に見せた相手の表情はなんとも言えない呆けたもので。其れがくしゃりと歪められたかと思えば、小さく小さく零れた言葉に厭らしい笑みが浮かんでしまう。
「……逢いたかった、」
何処ぞの誰が言ったかなんて知らねェが、俺が蝶だなんて笑わせる。蜘蛛の巣に囚われたままの蝶は彼奴の方だ。
戻る